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2009年12月09日

悲痛を超える楽天性

【「世に棲む日日」(司馬遼太郎著)シリーズ(9)】

 受験シーズンをいよいよ迎えます。我が家も予備校生を抱えているので受験生諸君の気持ち、そのご家族の気持ちは痛いほどよくわかります。「期待を裏切ってはならない」という気持ちの強い受験生も多いと思います。保護者や周囲からの期待、あるいは、自分自身からの期待です。

 でもね、長男(その予備校生)へも先日言ったんだけど、親が期待しているのは「合格してもらいたい」「いい学校へ受かってもらいたい」ということでは実はないのです。口ではいろんなこと言いますよ。厳しいことも言う、いやごとも言う。しかし、本当はね、「期待に押しつぶされない息子でいてもらいたい」「結果がどうであれそれを柔らかく受けとめて、その後も、謙虚に穏やかにのんびりと平和に、そして、愛する人々に囲まれて生きていってもらいたい」ということを「期待」しているのです。

 それが本当の「親心」なの。受験生のみなさんには、決戦を控えて心には響かないかもしれませんが、そんな「親心」に少しだけ甘えて、明るく、元気に、そして、楽天的に残りのラストスパートを乗りきってもらいたいものです。

 さて、「楽天的」と言えば、吉田松陰の楽天性は「歴史的」です。司馬遼太郎はこれを「悲痛をもとおりこして」と表現しています。長州藩は、「狂気」の吉田松陰を野山獄へ再び入れることによって、長州が誇るべき彼の命だけは何とか救おうと思っていました。しかし、それはかなわなかったのです。

<<−−江戸へ送れ。
 という幕命が長州藩にくだった。松陰の肉親、友人、門生はことごとくこの不幸をかなしんだが、松陰という人物のかなしさは、この幕府の江戸檻送命令こそ、絶望的な今の情勢下での唯一の希望であるとよろこんだところにあった。

「自分はおそらく刑死するだろう。しかし死ぬ前に救国の方策についての所信をのべることができる」
 といった。天下の裁判場裡で、自分を訊問する幕府役人の思想を変え、それによって幕府の方針をあるいはかえさせることができるかもしれない、すくなくともその希望が持てる唯一の機会が与えられた、というのである。

 その楽天性は、もはや滑稽どころか、悲痛をもとおりこしてしまっている。>>

 しかし、この楽天性がなければ日本の歴史ははるかに遅れたはずです。


Posted by 吉田 康人 at 08:51│Comments(0)
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