オオサカジン

日記/一般 日記/一般   | 高槻市

新規登録ログインヘルプ


2010年02月24日

相撲は神事

 就職活動中の大学生から集団面接のテーマに「大相撲の元横綱・朝青龍の引退騒動」が取りあげられたと聞きました。それほど、この問題を多くの国民が考え、議論しています。ただし、大相撲の原点は神事であることに触れないと本質論とはなりません。

 2月6日付「朝日新聞」夕刊「こころ」のページにあった「『相撲は神事』を考えて」(大村治郎氏)のコラムがわかりやすく解説していました。

 これは朝青龍が引退する前の話ですが、元横綱の貴乃花親方がある書物への寄稿文で次のように述べています。「未だに国技である"相撲"は完全に理解されているとは言えません」。「たとえば"横綱"についてですが、横綱とは『力士の中で最も強い者』『相撲という格闘技のチャンピオン』である、と解釈されている方がおられることが残念でなりません。同様に、相撲は"日本古来の格闘技"ではありません」。

 さらに、「相撲とは『神道』に基づき、男性が神前にその力を捧げる神事がその根源です。横綱に強さだけでなく、品格や厳格さが求められるのは、相撲が神事である証しといえるでしょう」としています。新横綱の推挙状授与も最初の土俵入りも明治神宮で行われます。

 前横綱審議委員で脚本家の内館牧子さんはこのような指摘をしています。「今は『四股名』と書くが本来は『醜名(しこな)』。力士が土俵に上がる際、「神の前にあっては非力な醜い人間風情」という卑下の気持ちを示すために名乗ったのが「醜名(しこな)」というわけです。

 力士が両手を付く「仕切り」も相手への最高の敬意を示す所作です。万葉学者の中西進さんによれば、行司が立ち合いで声を掛ける「見合って、見合って」も敬意の表れだそうです。「日本語で『見合う』というのは、ほめるという意味があるんです。お互いに尊敬しあえるからこそ、真剣勝負ができるという深い意味が込められています」。

 朝青龍は土俵上でしばしば、相手を威嚇するために睨みつけました。上述のような「相撲の原点が朝青龍に理解されていたのだろうか」とこの記事を書いた大村氏は述べています。同氏はさらに、「大相撲が単なるプロスポーツではなく、神事でもあることを力士もファンも理解しないと、大相撲は根を失ってしまうだろう。競技としての相撲だけでなく、神事としての相撲、文化や伝統としての相撲を学び、理解することも重要」とこの記事を結んでいます。

 吉田康人は、国技「相撲」を守るため、スポーツ・コーナーではなく、トップニュースや歴史、文化、伝統のコーナーでこの「神事」を伝えることをNHKへ提案します。


Posted by 吉田 康人 at 21:11│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。